大分のおいしいネタ、抽出しました。

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皆さん最近ハマっていることはあるだすか?
おいらは最近神社が好きなんだす。昔はそんなことなかったんだすが…。
あの独特な空気感とか神社の造形に惹かれるんだす。
歳をとったんだすかね…。
先日時間を作って、気になっていた神社に行ってきたんです…

じゃなかった、行ってきたん「だす!!!」

凄い神社ということなんだすが、皆さん賀来惟熊(これたけ)という人物を知っているだすか?
この人物が凄い方なんだすが、1796 年に豊前国宇佐郡佐田村
(現在の宇佐市)に生まれたんだす。

どう凄いかというと幕末の佐田賀来家の当主で、

民間で初めて大砲鋳造に成功した人物なんだすよ。

詳しく説明するとだすな、賀来家は平安時代以降、豊後武士団の一大勢力だった「大神(おおが)氏」の流れをくんだんだす。
賀来荘(現・大分市賀来)を根拠地に長く豊後守護大友氏の支配下にあったんだすな。そこから豊前を中心に村、町の有力者としての地位を築き上げていくんだす。

醤油・酒・酢の醸造、絞油、紙漉、染物、鋳物、蝋燭製造と、たくさんの事業に取り組み
ながら日本・中国の学問書を多く購入して学問にはげんだそうなんだす。

幕末のおおいたは、「豊後の三賢」と呼ばれた三浦梅園(1723~1789)・帆足万里(1778
~1852)・広瀬淡窓(1782~1856)らに象徴されるように、さまざまな学問分野で多くの
人材を輩出したんだすよ。

彼らは分野を超えて熱心に交流してそれぞれの学問の向上につとめたそうだす。
その中で賀来家は日出藩の儒学者、帆足万里と深く交流したと言われてるんだすな。
…そうネットに書いていただす。

1840 年にイギリスと中国がアヘン戦争を始めたんだすが、その影響で日本は海防の強化が
政治課題になっていくんだす。海防強化の中心事業になったのが「鉄製大砲の鋳造」なんだすよ。
鉄製大砲の鋳造には、大量の鉄の溶かす反射炉の建設が必要だったんだすが…

それにはヨーロッパの軍事科学に基づいた高い技術と豊富な資金力がないとできなかったんだす。それでほとんどの反射炉は江戸幕府、藩の主導で造られたんだすな。

そんな中で賀来惟熊はというとだすな、なんと…!本藩の島原藩からの資金援助を受けないで大砲鋳造事業に取り組んだんだすよ。

佐田村の宇中村から採れた陶土に砂・石灰を混ぜた三和土を焼成して耐火レンガを造って、そのレンガで1基1炉の反射炉を建設したそうだす。

反射炉が完成した年から2年程の間に、8 門の鉄製大砲を鋳造したそうだすよ。
鋳造した大砲は、本藩の島原藩の他に佐伯藩、日出藩にも配備、そしてその技術は鳥取藩に伝えられることになるんるんだすな。
…とネットに書かれてたんだすよ。

そんな反射炉を見に 1 月の終わり、安心院の佐田神社に向かっただす。

 

おぉ、ここだすか!

よし、さっそく階段を駆け上がるだすよ!
…んっ?
反射炉「跡」…!!!?
跡だすか!ということはもうないんだすか!
まぁ気を取り直して上に上がるだす。
上がってすぐ目に飛び込んだのがこれだす。

佐田社板碑…おそらくこれだすか?

そう言えばここは神社だす。
改めて鳥居をくぐることにしただす。鳥居は別の場所にあるんだすよ。

鳥居をくぐって少し歩くとあっただすよ!反射炉跡地だす
この場所に反射炉が造られたんだすか…んっ?

(看板を読んでみると…)

関連資料の研究が進んで製造は惟熊の次男、惟準(これのり)の業績とわかったんだす
か?それでも賀来惟熊をはじめとした賀来一族は凄いことに変わりはないだす。
それよりもネットが全て正しいとは限らないだすな。やはり自分の足で真実を探すことは大事だす。

その横に佐田の文化遺産が展示されていただすよ

凄い文化財だすな!
そして、佐田神社だす。

この佐田神社には反射炉に使われていた耐火レンガの塀が、本殿裏にあるそうなんだす。

…あっ!!!…写真撮り忘れてるだす!!!

落合商店のバカバカバカーッ…本当にバカだすよ!

仕方ない、気を取り直して最後の締めくくりに入るだすよ。
昭和 52 年の佐田の子ども達のちかいに良いことを書かれていただす。

特に最後のきれいな心を養いたいものだすな。
心を洗われただす。

当時子どもだった皆さん、元気にやってるだすか?
しかしこの凄い賀来一族と佐田神社。
もっと広く知られるべきだと思うんだすよ。
そしてまた凄い事実が判明したんだす。
賀来惟熊、某芸能人のご先祖様だそうだす。
令和の今でも凄いだすな。

佐田神社
住所:宇佐市安心院町佐田
営業時間:常時開放
定休日:なし
駐車場:数台
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大分/おおいた/落合商店/佐田神社/宇佐市/歴史/賀来惟熊/大分散策
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